続報

前回、Jim Stoneが四次元主義から矛盾が生じると主張した論文について書いたが、似たような趣旨の別論文を見つけた。

Jim Stone, (2007), "Persons are not made of temporal parts," Analysis, 67, 7-11.

今回の「矛盾」は単純化すればこう。ある人(以下P)がt時に「自分は時空ワームだ」と思ったとする。四次元主義によれば、ある人がt時にpと信じていることは、その人のt時における時間的部分がpと信じていることにほかならない。したがって、このとき、Pのt時における時間的部分(以下S)がまさにそれと同じ信念(「自分は時空ワームだ」)を持っていることになる。しかし、Sが持つ「自分は時空ワームだ」という一人称信念とPが持つ「自分は時空ワームだ」という一人称信念は同一ではない。なぜなら、前者は偽なのに後者は真だから(前者の「自分」の指示対象は時間的部分)。つまりSは誤った信念を持っていることになる。すると、Pも同様に誤った信念を持っていることになるだろう。でも、Pが持つ「自分は時空ワームだ」という信念は(四次元主義が正しければ)真だ。こうして、Pは「自分は時空ワームだ」と誤って信じており、かつ正しく信じていることになる。つまり、Stoneによれば、四次元主義から、ある人が真な信念を持っており、かつそれと同一の信念なんだけれども偽であるような信念を持っていることが帰結する。
以上の説明で何も引っかからなかった人は反省してください。これは明らかにおかしい。突っ込みどころはいくつもあるが、何よりも、「自分は時空ワームだ」が指標的信念であることが見逃されているのは大問題。

時空ワームが持つ一人称信念と時間的部分が持つ一人称信念は、両者が同一でない以上、真理条件も含めて同一にはなりえないというのは正しい。でも、ここで問題になっているのは指標的信念なのだから、Kaplanに従って意味特性(character)と意味内容(content)を区別しないといけない。ちょっと考えてみれば分かるように、時空ワームと時間的部分が同じ意味特性を持つ信念を共有することに問題はない(どちらも「自分は時空ワームだ」というかたちで「自分」の指示対象が異なる命題を信じていることになるだけ)。同じ意味内容を持つ信念でも同様(どちらも「Sは時空ワームだ」あるいは「Pは時空ワームだ」と信じていることになるだけ)。

また、ワーム論者と段階論者の違いは、通常の名詞の指示対象が時空ワームなのか段階なのかの違いだから、「自分」の指示対象も同様に、時空ワームか段階かのどちらか一方に定まると考えてもいいだろう。すると、SとPが持つ「自分は時空ワームだ」という信念の意味内容は両方とも、段階論者なら「Sは時空ワームだ」、ワーム論者なら「Pは時空ワームだ」になるので、SとPが意味特性も意味内容も同じ信念を持つことなっても、何の問題もない。

したがって、この「矛盾」が生じるには少なくとも、「自分」は無差別的に一人称であり(すなわち、時間的部分の場合は時間的部分を指示し、時空ワームの場合は時空ワームを指示する)、しかも、時空ワームと時間的部分は意味特性も意味内容も同じ指標的信念を持たなければならない。でも、既に述べたように、四次元主義者にとってこの二つの条件を受け入れる理由は特に無い。(ほかにも、たとえば、時間的部分は言わば一種の物体に過ぎないので信念を持たない、と見なす場合でもこの「矛盾」は生じない。)

また、ここでの信念をフレーゲ的なものと考えた場合、Stoneが主張しているのは、この人が〈「自分は時空ワームだ」、Sは時空ワームだ〉という信念と〈「自分は時空ワームだ」、Pは時空ワームだ〉という二つの信念(両者は同じ現れ方をしているが真理条件が異なる)を持っているということにすぎないので、これ自体は矛盾ではない。

とまあ、ここまでStoneをけなしてきたわけだが、指標的信念に着目するというのは新しいので、論文として認めていいと思う(とはいえAnalysisに載るほどでもないとは思うが)。ただ、Stoneの考えがとても表面的なのは否定できない。「自分」によって時空ワームを指示することが不可能でないとこの「矛盾」は生じない。でも、指標子の理論は別に完成されている訳じゃなくて、現在でも様々な例外が提案されている。この例でも、誰か(たとえ時間的部分でも)が「自分は時空ワームだ」と信じているとき、その「自分」の指示対象は時空ワームであることが意図されているはずだという反論があってもまったくおかしくない。要するに、こういった議論には常に「意味論が不完全だからでは?」という反論がつきまとう。このことが分かっていれば、Stoneの議論が決定的でないことは明らかじゃないかな。