Tim Crane講演

今週の講演はTim Crane。つまり、二週連続でイギリス英語。タイトルは「Aboutness and Non-existence」。なんとも内容がしのばれるタイトルだが、10分ほど遅れて会場に着いたんだけれど、ちょうどそのときMeinongのsubsistとexistの区別の話をしてた。分かりやすい。
この講演は、ぜんぜん期待してなかったんだけれど、予想外に興味深かった(ただし、いろんな意味で)。まず、Tim Craneについては、翻訳も出てる結構有名なイギリスの心の哲学の人、ぐらいの印象しかなかったんだが、立場も話もはっきりしてて分かりやすい。要は、Meinongみたいなのじゃないオーソドックスな存在論を守ろうとすると、non-existentが問題になる。中でも特に問題なのが、志向的対象。だからどうするかというと、志向的対象についての単称文は、指示対象とは独立に真偽が決まるとすればいい、というもの。当然、質疑応答で集中砲火を浴びることに。

まずは院生から彼の主張の詳細の説明を求める質問がいくつか。その後、まずはJason StanleyがTruthmakerをどうするのかと質問して集中砲火の口火を切る。その後でJerry Foderが改めて質問しなおしたが、つまりは、Tim Craneがどういう意味論を考えているのか分からない。Tedは、量化についてどう考えているのかを尋ねていた。結局、Tim Craneは自分の立場をどうregimentするかはまだ考え中らしい。他にも、言語学的には「think」の振る舞いは特殊だという意見や、FregeのSinnみたいなものを考えてるのか、という質問が出てた。

はっきり言って、Tim Craneはこれらの質問にまともに答えられなかったように見えた。でも、だからと言って彼がダメだとも思わなかった。と言うのは、彼の方針はまさに優等生だから。つまり、MeinongやLewisみたいに、とにかく存在論をゆるめれば問題が解決できるのは既にはっきりしてるし、Salmonみたいに志向性に関する文をぜんぶ偽にしてしまって、語用論なりなんなりで我々の直観を説明することにしても解決できる。でも、どっちもコストに見合うだけの優れた方針には思えない。だから、どうにかして中間を行ければ素晴らしい。Tim Craneは真っ正直にこれをやろうとしてる。でもまさにそれは形而上学を真剣にやり始めると最初にはまる泥沼。そういう意味で、彼の考えてることは「正しい」。必要なのは、そこから、どうやって極端に走らずに泥沼を回避するのか。現代の形而上学者が考えてるのはまさにこれ。

Tim Craneはやはり心の哲学の人で、ごりごりの現代形而上学には慣れていないんだと思う。でも、だからこそ、専門の形而上学者のようにコアなトピックに偏らず、もっと全体的(ないし他の分野と絡む)な視点から見ている。そのおかげで、はっきりした見通しを与えてくれた。結局問題は、よくある話だが、言語と世界の結びつきをストレートに考えているからだと思う。指示対象を欠く固有名や命題的態度に対して、意味論的分析を与えようと頑張るから、どこかで変な帰結が出てきてしまう。だが、本当に必要なのは、そういう文でも真でありうることをいかに説明するか(このへんは一昨日のFineのセミナーとも関係する)。大事なのは説明であって、これらを含めた包括的な理論を与えることではない。もちろん、それができれば素晴らしいのは当然なのだが、それが無理だからといって、常識的には真な文を否定するのと、へんてこな存在論のどちらを選択するのか迫られるわけではない。