今日のKit Fineセミナー

油断してたら日付が変わっていた。わざわざこっちの時間に合わせてるのに。

今日も眠い目をこすりつつ(ちなみに18:15開始)、NYUまで行ってきた。ちょっとだけ早く着いたので(というか、電車の数が少ないので、間に合うように行くと、必ず中途半端な時間になる)、周りを散歩してみる。お、スタバが。こっちはBarnes & Nobleか(つまりスタバ込み)。あ、またスタバが。などとのんきに歩きつつNYUへ。すると、今日は何かイベントがあるらしく、身分証チェックもスルー(NYUは入り口で身分証を見せる必要がある)、エレベーターも爆混み。仕方がないので、階段で上がる。哲学科は五階。着いたとき頃には息が切れてしまった。こんなことなら散歩なんてするんじゃなかった。
さて、今日のセミナーで興味深かった二点。ひとつは定義の話。ひとくちに定義と言っても、少なくとも二つのやり方がある。ひとつは、同一性言明によるもので、もうひとつは双条件法によるもの。RD conceptのような概念を定義する場合、前者は概念に指示する必要があるので(そして概念を指示対象に認めると、有名な概念馬の問題が発生するので)、後者の方がベターのように見える。しかし、当たり前だが、双条件法であれば何でも定義になる訳ではない。と言うよりは、前者が成り立つことによって、後者も定義とみなしてよいだけのように思われる。では、定義とは何か、定義とは「理解への道(route to understanding)」を与えるものだとFineは言う。bachelorがunmarried manと定義されるとするなら、bachelorを理解することは、unamrriedとmanを適切に組み合わせることによって達成される。もちろん、RD conceptの場合は、もっとややこしいことになるんだけれど。

もう一点は、一回目に配布されたReadingsのひとつ、Crispin Wrightの"The Euthyphro Contrast: Order of Determination and Response-Dependence"*1へのコメントから。Wrightによれば、RD conceptの場合、responseの有無(すなわち定義の右辺)が問題の概念の適用の可否(定義の左辺)を決定する(ちなみに、これがEuthyphroの立場。対するSocratesは逆に、概念の適用の可否がresponceの有無を決定すると考える。この対立がorder of determination)。Wrightはこれを、定義の右辺が左辺の"conceptual ground"を与える、とみなす。だが、これが一体何なのかは(例によって)よく分からない。Fineによれば、むしろ彼の"ontological ground"*2を用いるべき。つまり、どちらが説明を与える役割をしているのか、という問題になる。たとえば、p∧qが真であることはpとqが両方とも真であることと同値だが、前者によって後者が説明されているのではない。これは、p∨qが真であることがp(あるいはq)が真であることによって説明されることはあっても、逆はないのと同じ。論理結合子を含む文と含まない文が同値であることは、両者が対等であることをいみするのではない。

*1:in Reality, Representation and Projection (Mind Association Occasional), p. 108-139(だと思う)。

*2:この"ontological"は元の論文が実在論の話だったからで、ここではあまり関係ない。