今日のTed Siderゼミ

今日は前回の続きで(続きなんです)、Amy Thomassonの「Answerable and Unanswerable Questions」。まず、指示の因果説は受け入れる。ただし、命名儀式のときに多義性が排除されている必要がある。そしてそれは意図されている対象のsortalを特定することで行われる。で、sortal termはapplication conditionとidentity conditionが確定していないとまともに使うことが出来ない。まあ、ここまではありがち。

Thomassonはここから、sortal termのapplication conditionとidentity conditionは分析的真理なので、存在論的論争は本当の論争ではないと主張する。で、(誰がどう考えても)なぜ分析的真理なのかがツッコミどころだが、Tedはapplication conditionをqunatificaiton varianceを使って解釈する(一方の量化子をもう一方の量化子を使って定義している)。そうじゃないとすれば、あとは単なる規約による真理としてしか考えられないが、それにしてはQuine以来の批判を無視している。

Thomassonのもうひとつの論点は、存在論的論争は存在者の個数の違い、すなわちgeneric existential claim(「There is somthing here」が一例)の違いと解釈できるが、そもそもgeneric existential claimは真理評価すらできない。なぜなら、存在文にはsortal termが必要だが、something(やobject)はapplication conditionもidentity conditionもないのでsortalではない。ということで、やっぱり存在論的論争は本当の論争ではない。で、Tedはいろいろ工夫をこらして反論する。
でも、正直なところ、Thomassonがこんなにsortalに固執する理由が分からない。唯一考えついたのは、この人は、言語と世界を繋ぐのは固有名(および自然種名。以下同様)しかなく、その上で固有名がどんな指示対象を指示するのかは、命名儀式のときに使われるsortal termによって決定されると考えてるんじゃないか、ということ。これなら、固有名が当のsortal termのapplication conditionに当てはまらない対象を指示しているのは分析的真理になる。また、generic existential claimの真理評価が不可能なのも、それがsortalを欠く以上、指示機能をもつことはできないから、となる。

ただこれだと、Thomassonは存在論的コミットメントという言葉を知らない人みたいだ。さすがにそこまで低く評価していいのか悩むが、ただ、generic existential claimの真理評価は不可能だとsortal以外の根拠を挙げずに主張するところが、さらに疑惑を駆り立てる。だって、generic existential claimは素直に読めば∃F∃xFx(量化子の順番は逆かも)なのでなにかひとつFaが成り立てばそこから帰結する。で、これがsortal termを含んでいないのは性質を量化してる以上、当たり前。こういう話に一切触れないのは、存在論的主張と存在量化の関係を知らないんじゃないかと思わせる。

ただまあ、実のところ、実際に論文を読んでみてもThomassonの議論ははっきりしない(というか、まともな議論を読み取れない)。で、Tedに聞いてみたところ、Tedもあんまり確信をもってない模様。僕がfunnyな論文だねと言ったら、確かにstrangeだと言っていた(それでも授業で取り上げるのは、存在論に対する疑問を正面切ってぶつけてきてるかららしい)。正直、そんなもんを頑張って解釈してやらなくても、という気がしないでもない。

Tedには、こういう、しっかりとした議論があるように見えない論文(や立場)を、自分の道具立てをフル活用してまともな議論に仕立て上げる傾向があるような気がする。つい最近Work In Progressにアップされた「Against Monism」もそう。一読して、そこまで頑張るような立場かいなと思った。