Practice Job Talks

さて次の日。Tedに誘われたので、Practice Job Talksというものを聞きに行った。

時間がないので続きは帰ってから。今週はどうも忙しいな。

と言うことで、ここからは1/26追記分。
10時からという話だったので、眠い目をこすって会場の哲学科図書館に行くと閉まっている。ふと横の掲示板を見ると、10時からのtalkはキャンセルされていた…。その後、メールをチェックすると、僕が家を出る直前にキャンセルのメールが流れていた。もうちょっと早くしてくれてれば…。次のtalkは12:15から。仕方ないのでstudent centerの喫茶店で翻訳の続きをする。

さて、12:15からのtalkのspeakerはAdam Swenson。タイトルはTBAだったけど、当日もハンドアウトが配られた訳でも板書があった訳でもないので、本当のタイトルは分からず。ただ、痛みが本質的に(内在的に)悪であるということを主張する議論だった。それなりに整理された話だったけど、痛みについての現象学的なんちゃらとか、よく分からんことをいっぱい言っていたので、細かいところは全然分からず。ただ、痛みが悪なのは、その人の自律(autonomy)を阻害するからというのが論点らしい。

議論も含めて2時間近くやったあと、10分ほど休憩して次のtalkへ。Kevan Edwardsの"The Role of Empty Concept"(がくっと聴衆が減った(僕を入れて三人)のがもったいなかった)。これはKeynoteが使われていてハンドアウトもあった上に、よく知ってる話がいっぱいあったのでよく分かった。彼のプロジェクトは、ラッセリアンvsフレーゲアンという言語哲学の枠組みを概念に適用して、心の哲学に寄与できないか、というもの。具体的には、empty nameをempty conceptと読み替えて、emptyなものは何も指示しないというラッセリアンの立場を擁護し、ひいては自然主義を守る。

彼の議論の重要なポイントは、指示の理論のconstitutionとimplementationを区別すること。constitutionは指示の理論の存在論的な部分で、implementationは言語的意味の理解や言語使用についての説明を与える。こうすると、指示の因果説や記述説のもっともらしさはimplementationに関する事柄になる。で、この二つが同期している概念は完全な概念であり、我々はそれを適切に理解し、取り扱うことができる。で、empty conceptは同期していない概念だ、とされる(神話上の存在者は我々の認識が不十分だったために同期しておらず、虚構の場合は逆に、認識が十分深まった結果、同期しなくなる)。

いくつか問題はあるものの(たとえば意味論的内容はどうなるのかよく分からない)、この取り扱いはなかなか興味深い。ただ、constitutionの方が何をするものなのかよく分からないのは大きな欠点。個人的には、これはむしろ指示の理論がimplementation以上のものではないことを意味しているんじゃないかと思った(まあ、これは僕が指示の理論を整備して言語の存在論的含意を取り出す試みをさんざんやって諦めた人間だからかもしれないが)。

で、最後はGary Barlettの"A Dilemma for Computational Theories of Experience"。主な筋は、意識をある種の計算と同一視する立場に対して、Maudlinの議論を手がかりに、それが十分条件になりえないと主張する。ハンドアウトも充実していて、英語も聞き取りやすかった上に、あとの議論でも自分の立場をきっちり守っていて、なかなかよくできているんだけれども、どうもなんか面白みに欠けるというのが僕の印象。その理由の一つは、物理的に同一だけれども計算結果が違うagent(というか人間)を仮定して議論していたけれども、この設定自体が十分正当化されているように思えないこと(TedやRobert Matthewsがこの点をさんざん突いていた)と、十分条件になりえないのがどうまずいのかはっきりしない(Francis Eganの言うように必要条件でも悪くない結果のように思える)こと。つまり、相手の立場がとても素晴らしい結果をもたらすように設定した結果、維持するのが困難になってるだけのように思えた。

とまあ、Practice job talksなるものを聞いたのは初めてだったけど、三人三様で興味深かった。これで質問ができてればよかったんだけどねえ。