Saul Kripke: Philosophy, Language and Logic

この日はCUNYでクリプキの65歳の誕生日を祝ったカンファレンスがあったので、半分物見遊山で行ってみた。
9:30からセレモニーで10:00から講演という予定だったので、9:30までに行こうと家を出たら、電車が遅れて結局到着は10:00前。しかも、まだ始まってない。どうもクリプキ本人がまだ来てないからだったらしい。やがて、がやがやしていた会場が急に拍手でいっぱいになったから何かと思えば、クリプキ登場。本物を見るのは初めてだったけど(もちろん偽物も見たことないです)、写真通り人のよさそうなお爺ちゃんという感じだった。そして驚くべきことに、クリプキのお父さんと一緒だった(そして最後までいた)。92歳だとか。

で、セレモニー開始。CUNYの偉いさん二人のお話に続いて、クリプキの弟子のAlan Bergerがクリプキの経歴を紹介。まずは、様相論理の完全性証明に関するエピソード。このあと、クリプキにどこかの大学の数学科からオファーがあったらしい。が、そこの人はクリプキが高校生だということを知らず、ネブラスカ在住ということで直接ネブラスカ大にオファーの手紙を送りつけたとか。それが最終的にクリプキの実家に送られクリプキは断りの返事を書いたらしいが、それは「申し出は非常にありがたいのですが、お母さんが先に高校を卒業しなさいと言うんでお断りします」というものだったとか(この話、有名?)。

このあと、「省略するけれども」と言いつつ、名指しと必然性やらウィトゲンシュタインパラドックスやら信念のパズルをひたすら挙げたので、笑いが起きる。が、興味深かったのは最近のクリプキの仕事になったとき(ここからは詳細に説明していた)。ロックの二次性質への批判、論理実証主義ウィトゲンシュタインと数の同一性を巡る議論、さらに、PresuppositionとAnaphora(これは有名か)、カントールやプリンキピア・マテマティカの再評価…とまあ、山ほど仕事をしていたらしい。最終的に、「これまで公刊されたクリプキの業績は20世紀後半の哲学をリードしてきたが、今後公刊される業績は21世紀をリードするだろう」と締めくくられた。

おっと思い出した。このあと、招待されていたけどこの日来れなかった人からのメッセージ。ひとりめは集合論の人(名前をメモし損ねた)。二人目はパットナム。パットナムのメッセージはとても短かった。三人目はカプラン。なんとこの日はカプランの50回目の結婚記念日なので来れなかったとか。カプランからのメッセージは友達からといった雰囲気に満ちていて、仲がいいことを伺わせた。

時間が押していたので、セレモニーのあと引き続いて講演。一人目はScott Weinstein。きれいにつるつるの頭でもの静かに喋るのが印象的だった。話は、思い出話+彼の弟子(=クリプキの孫弟子)の最近の集合論での業績の紹介、といった感じ。あんまり覚えてない。

講演二人目は、Sally McConnell-Ginet。言語学者らしい。クリプキ言語学での影響を紹介しつつIndexicalについての話。基本的に紹介だったので勉強になったが、それよりも、Dthatはカプランの言うように発音するのは難しいとか、僕が修論で取り上げたNunbergを引用してたとかが印象的だった。

お昼のあとは、Scott Soames。つまりここから本番。聴衆もぐっと増え、Rutgersの人の顔を見かけた。

Soamesの発表は、アポステリオリな必然性を主張する議論について。Soamesによれば、『名指しと必然性』でクリプキはアポステリオリな必然性について二つのルートを提示している。一つは、本質主義に基づくもの。つまり、本質主義によって形而上学的に必然であることが帰結するが、認識論的には必ずしも必然とは思われない命題がある。これは、自然種についての命題など、多くのアポステリオリな必然性を確保してくれる。だが、これはヘスペラスとフォスフォラスのような共外延的な名辞についての同一性言明には無力である。そこでクリプキが提示するもう一つのルートは、引用解除を用いるもの。つまり、ある種の命題はそれを信じることを正当化するために経験的証拠を必要とする。よって、文sは必然的な命題pを表していても、sを信じるためには経験的証拠eが必要となる。

まとめると、命題の必然性は問題となる個体(ないしその個体について成り立つ性質や関係)の本質によって決定される。その本質を知ることが経験的にしか不可能ならば、その命題はアポステリオリである。一方、それがアプリオリに知られる場合(同一性命題)でも、その命題を信じるために、その命題を表す文を受け入れさせる経験的証拠が必要ならば、その命題はアポステリオリにしか知られえない。

だが、この第二のルートは信じがたい。と言うのは、同一の命題を表す二つに文について、一方を受け入れさせる経験的証拠と、もう一方の否定を受け入れさせる経験的証拠の両方が存在することが考えられるからである。信念のパズルの例がそうである。結局のところ、「ヘスペラス=フォスフォラス」のような命題が、他の文からアプリオリに知られる可能性を排除しない限り、アポステリオリな必然性に至る第二のルートはその目的を果たさない。とはいえ、第一のルートは残されおり、これにより我々は形而上学的必然性と認識論的必然性の区別というクリプキによる重要な結果を維持することができる。

ふう、我ながら長いな。ともあれ、Soamesは何と言うか、政治家みたいで(格好はラフだったけど)、論旨も滑舌も明快。クリプキやNathan Salmonからの質問に対する応答も余裕たっぷりだった(というか、この三人は本当に仲がいいんだなと思った)。内容的にすごく斬新という訳ではなかったけれど、名指しと必然性から信念のパズルに至る過程でクリプキの主張のどこが誤りだったのかを説得的に提示してくれた。アポステリオリな必然性についてのクリプキの議論には本質主義が重要な役割を果たしているのは明らかだけれども、本質主義さえ拒否すればアポステリオリな必然性に至るルートが消え失せることをはっきり理解できた(こう書いたからといってアポステリオリな必然性を拒否してる訳じゃないです)。

さて、このあとは御大クリプキの講演。会場も満席になって、入場が閉め切られたとか。が、非常に残念なことに、クリプキは、何と言うか、非常にお爺ちゃん喋りで、何を言ってるのかよく分からなかった。少なくとも"I"の意味についてで、カプランは"I"に関してFregeは正しいと主張したそうで、それに関していくつかの哲学者を引き合いに出していた(Frege、Evans、Burge…)。結論は、Fregeに同意する方向だったような。

Dr. ラウベンを例にして話が進んでて、クリプキが「えっと、ファーストネームは何だっけか」と言うや否やフロアのNathan Salmonが「グスタフ」と答えてた。あと、クリプキが引用するために持参していた本の栞が落ちて、引用箇所が分からなくなったとき、司会のMichael Devittがすかさず手助けをして正しい箇所を見つけ出していた。

このあとは本当に感想を。クリプキについてにはいろんな話(いいのも悪いのも)を聞いていたけど、今回本物を目にしてさらに分からなくなった。確かに変わり者だった。冗談好きで、すぐ脱線する。文句なく誰よりも笑いを取っていた。でも、一方で話も明快とは思えなかった(聞き取れなかったせいもあるけど)。ただ、初めて名指しと必然性を読んだときの、明快に主張しているようで変な留保があったり、議論がしっかりしているように見えてどこかに変な前提があるように見えたり、面白いんだけれども胡散臭さもある、あの感じを思い出したことは確か。結局どんな噂よりも、彼の本を読んだときの印象が一番正しかったのかもしれない。

それと、Soames、Salmon、Devittという修論を書いていた前後に必死で読んでいた哲学者たち(残るはHoward WettsteinとJoseph Almogぐらいか)が、あの頃の延長線上の議論をしているのは、なんとも不思議な気分だった。もっと若い頃にアメリカに来ていれば、また違う気持ちになっただろうな。