ホリデーパーティーと認識論

珍しく連続で日記を書いてるな。そんなことはさておき、今日は哲学科のホリデーパーティー。さすがアメリカ。もちろんパーティーと言ってもそれほど形式張ったものではなく、時間になれば徐々に人が集まり、なんとなくバイキングの料理を取って来て、適当に席に座って食べて喋るだけ。ただ、途中にDepartment ChairのPeter Kleinから、Susanらスタッフに感謝の贈り物をするセレモニーがあった。そしてみんなでスタンディングオベーション。こういう機会は日本では見たことない。確かにいかにもアメリカ的ではあるけれども、こういう心配りがここの哲学科の雰囲気の良さを作ってるんだと思う。

さて、パーティ−の最中にうろうろしてたらPeterが呼んでくれたので、ちょっと話をした。ついでに彼のセミナーに出てて思ったことを聞いてみた。彼のセミナーでは懐疑論に関する話題がかなり多かったが、懐疑論をそこまで真剣に受け止めなくてはいけないのはなぜか、いまいち理解できなかった(つまり、どうして単に「私は自分が桶の中の脳ではないことを知っている」と言えないのか)。

Peterの回答は明快で、認識論は懐疑論から始まる哲学なので、懐疑論を無視できるなら認識論をする必要はない、とのこと。ただ、これが認識論のすべてじゃないのが重要なところ。例えば、外在主義では懐疑論は問題にならないが、それは外在主義が独自の認識論をしてるからかもしれない(将来的に認識論が二つに分かれることも考えられるんじゃないかと聞いてみたら、かもしれないと言ってた)。

このことはGoldmanが来たときに感じたことと関係する。みんなReliablismが懐疑論に対する答えにならないことを執拗に突いていたが、Goldmanはいまいち論点が理解できないように思えた。Peterも同感で、ただ、Goldmanはその論点を理解しようと努力してる。ところが、Goldman以外のReliabilistは理解しようとすらしない(Reliabilismを作ったのはGoldmanなのに)。おそらく、外在主義を支持する直観と懐疑論は胡散臭いと素朴に思うことは無関係ではないんだろう。