公開講演会「Alex Orenstein (The City University of New York) "Plato's Beard: What Might not have Existed"」

もう日付けが変わったけれど、先週に日大で開かれたほうに行けなかったので行ってきた。途中で雪が降りだしたのでどうなることかと思ったが、うまい具合に屋内にいるときだけしか降られなかった。日頃の行いのせいだな(笑)。
さて本題の講演。Quineの有名な議論で、指示対象を持たない固有名(たとえば「バルカン」とか)を認めると困った帰結が得られる、というのがある。まず、「aは存在する」を「∃x(x=a)」と表すことができるのはよく知られている。だから、「バルカンは存在しない」は「〜∃x(x=バルカン)」となるが、これから存在汎化によって「∃y〜∃x(x=y)」が導かれる。でも、これは「∀x(x=x)」と矛盾する。

また、Wigginsはこれと関連する議論をしている。「∀x(x=x)」から「∃x(x=シーザー)」が論理的に導かれるが、論理的真理は必然的だから、「∃x(x=シーザー)」も必然的真理になる。でも、「シーザーは存在する」は明らかに偶然的真理だろう。

こういった問題を解決するために、Orensteinは存在汎化を制限する。つまり「Fa」だけから「∃xFx」を導出するのを許さず、さらに「∃x(x=a)」も必要だとする。つまり、「∀x(x=x)」は一般的には成り立たたない。だから「Fa|-∃xFx」はだめだが「Fa&∃x(x=a)|-∃xFx」はOKということらしい。で、これは存在概念を二階の概念とするフレーゲ(そしてカントも)的発想らしい。

後は、この分析が虚構的存在者に関してしっくりくるという話が続いたが、ここまででかなり理解につまづいたので、正直、この先の話はよくわからなかった。

質疑応答では、まずDさんが途中で言及さえたカントの立場との異同と虚構の取り扱いについて質問。次に、Graham Priestが、そもそも何の問題を解決しようとしてるのかについて質問していた。Priestからすれば、わざわざ存在汎化を制限しなくちゃいけないこととは思えないようだった。これについてOrensteinは、直観の違いだと考えているようだった(が、それでいいのか?)

ここで質問が途切れたので質問する。僕が聞きたかったのはOrensteinの様相概念。「バルカン=バルカン」はクリプキ以降の「常識」では必然的真理だけれど、Orensteinの言う通りだと必然的真理にならない。「バルカン」には指示対象が存在しないので、これはたいしてまずいことでもないかもしれない。でも「ソクラテス=ソクラテス」はどうだろうか。予想外だったが彼の返事は、「ソクラテス=ソクラテス」も必然的真理じゃないというものだった。ふつうの可能世界意味論で考えれば、「ソクラテス」が固定指示子だと「ソクラテス=ソクラテス」は必然的真理になる。だから彼はこういう考えを受け入れていないらしい。

これ以上つっこむのはやばい気がしたので、これでお礼だけ言って質問を終えた。でも、正直、「シーザーが存在する」と「ソクラテス=ソクラテス」がどっちも偶然的真理になるなんて、そもそも必然的真理なんてものはないと考える以外に、そう考える理由を思いつかない。さらに言えば、「ソクラテス=ソクラテス」は分析的真理でアプリオリな真理だとみなすのが普通だ。すると、分析的真理もアプリオリな真理もそもそもないんだろうか(いやま、クワインならそういうかもしれないけれど)。それとも、分析的だけれども必然的ではないんだろうか。その場合の「必然的」っていったいどんな意味なんだ?

僕のあとはFさんが指示対象を持たない固有名の扱いについて質問してたけど、内容は忘れてしまった。明日会えれば聞いてみよう。

全体的には思ってたより面白かった。はっきり言って、彼がやってることは、自分の直観に合わせるために存在汎化を制限してるだけだ。でも、指示対象をもたない固有名に関する問題に対して単なる存在量化と二階の概念を区別するというアプローチ自体はひとつの方法だと思う。だから、もしかしたら、こういうアプローチのほうが優れているということもありうる(虚構的存在に関しては何か言えるかもしれない)。

とはいえ、やはり存在汎化を制限する理由としてはあまりに弱い。通常の存在汎化を許すと本来必然的でないものが必然的になってしまうと言っているが、Orensteinの制限を課すと、ふつうは必然的と思われるものが偶然的になってしまう。だから、Orensteinの必然性概念のほうあが正当だとみなすべき理由が見つかるまでは、あえてこのアプローチを採用する理由はないと思う。