出版祝いの極私的後書き・その2

id:shinichiroinabaさんの期待に応えるべく、昨日の予告通りexduranceについて書いてみた。とても長くなった…。

最初は「exduranceって要は段階説(stage theory)のことなんだからわざわざ別の用語を作る必要ないじゃん」と思っていたんだけれど、ちゃんと考えてみると、そう言い切るのはいろいろ厄介だということに気付いた。ただ、それでもexduranceを耐続(endurance)とも延続(perdurance)とも異なる第三の持続とみなすのはなかなか大変だと思う。ポイントは次の二点。

  • exduranceとはSiderの段階説をワームに依存しないように解釈したものだが、その結果、問題点が無闇に増えている
  • exduranceは意味論に関する理論であって、耐続vs延続という存在論的論争とはレイヤーが異なる。したがって「exdurance」という用語は不適当

以下、理由を長々と説明してみる。
まず、そもそもexduranceとは何か。Haslangerの規定*1によれば、人や机といった日常的な対象Aがexduranceによって持続するのは別の時点に(D. Lewisの対応者理論の意味で)Aの対応者A'がいる場合だとされている。つまり、AとA'は同一でないので文字通りの意味では「Aが別の時点まで持続している」とは言えない。ところが、それでもやっぱり「Aは別の時点まで持続する」と言える。なぜなら、「Aが別の時点まで持続する」を「Aが〈別の時点において存在する〉という時間的性質をもつ」ということだとすれば、後者は事象様相(de re modality)の時間版なので対応者理論により真となる、と言えるから。

ここまでなら確かにexduranceは耐続とも延続とも異なる。耐続説でも延続説でも、対象Aが持続するためにA以外の対象は必要ない。耐続説では、別の時点に位置する対象もAそのものでなければならず、延続説ではAが別の時点にまでまたがって存在していなければならないから。Haslangerによれば、exduranceによる持続とは、言ってみれば「持続するために同一性は必要ない。対応者さえいればそれでいい」ということらしい*2

ここでexduranceをSiderの段階説と比較してみよう。exduranceがSiderの段階説を念頭に置いて規定されていることはHaslanger自身も言及しているとおり*3だが、面白いのは、Siderは段階説を延続説の一種だと考えていること。SiderにとってAとA'が対応者関係にあることは、両者が同じワームの時間切片であることに等しい。つまり、Siderからすれば、段階説もワーム説も〈世界のあり方〉は同じ。どちらでも世界には文字通りの意味で持続するワームがうようよいる。両者の違いは、「A」の指示対象がワームなのかワームの時間切片(段階)なのか、ということだけ。言わば、存在論的には同じだけれど意味論的に異なっているだけ*4

重要なのは、Siderの段階説では、Aは文字通りの意味では持続していないけれども、文字通りの意味で持続する別の対象(すなわちワーム)が存在し、「Aが別の時点まで持続する」が真であるためにはワームが文字通りの意味で持続している必要があること。つまり、Siderの段階説では、持続するために同一性はやっぱり必要。ただし、持続している対象そのものの同一性ではなく、その対象を切片として含むワームの同一性だけれど、ということになっている*5

さて、Haslangerが考えているexduranceは、Siderの段階説とは違ってワームの存在に依存していない。つまり、「ワームの存在なしに持続する段階がある」と言えて初めてexduranceはまともな説となる。しかし、そのためには説明すべきことが少なくとも三つある。

  1. 対応者の存在=持続と言えるのはなぜか? Siderが「Aが別の時点まで持続する」は対応者理論により真だと強弁できるのは、結局はAを含むワームが文字通りの意味で持続しているからだ。つまり、Aそのものは持続していないけれども、Aはあるワームの時間切片であり、そのワームは文字通りの意味で持続しており、しかもそのワームには対応者であるA'も別の切片として含まれている。だから、Aは言わば間接的に持続しているんだ、と説明できる*6。しかし、ワームが存在しないならばこういう説明は成り立たないので、別の説明(あるいは「持続とはそういうものだ」という開き直り)が必要になる。
  2. 段階を集めてワームを作ることが許されないのはなぜか? 『四次元主義の哲学』第3章第4節でSiderが論じているように、耐続と延続は現在主義と永久主義のどちらとも両立する。なら、exduranceも同じようにどちらとも両立するだろう*7。このとき、現在主義版exduranceには何の問題もない。そもそもワームが存在しないからだ。しかし、永久主義版exduranceの世界でもワームはおらず、持続しない段階がずらっと並んでいるだけ。そしてこのとき、段階の集合が存在してはいけない。というのは、段階の集合を「ワーム」と呼んでしまえば延続説になってしまうから。だが、対応者関係が成り立つ段階はいっぱいあるのにそれらの集合が存在しないのは、いったいどういう理由によるのだろうか?*8
  3. 無時間的な数え上げをどう説明するのか? 『四次元主義の哲学』344ページでSiderが論じているように、段階説には無時間的な数え上げに関する問題点がある。たとえば、一人しか住んでいない家について、「この一時間のあいだ、この家の中で持続していた人は何人か?」という問いに対し、段階説の与える答えは「一人」ではない。なぜなら、ある瞬間に持続していた人は次の瞬間に持続していた人と同一ではないから(よって答えは「無数」ということになる)。この問題に対するSiderの応答は、数え上げは通常は段階を使って行われるが場合によってはワームのこともある、という妥協の産物の典型例のようなもの。しかし、ワームの存在を認めないのならば、こういった応答さえできなくなる。

この三点すべてについて、満足のいく説明を与えることも可能かもしれない(BalashovがDefining 'Exdurance'でやってるのはそういうことかもしれないけれど、彼のウェブサイト上から削除されてるので分からず)。でも、もっと根本的な疑問もある。Siderからすればワーム説と段階説の違いは意味論だけなのに、Haslangerはその意味論の違いを、耐続と延続という存在論的な違いと同等に扱っている。確かに「持続についての理論」という意味では、意味論が異なれば違う理論になる。でも、存在論と意味論は組み合わせることができる(実際、Siderの段階説を四次元主義版exduranceとみなすならば、三次元主義版exduranceだって不可能じゃない)。第一、Haslangerの規定からすれば、exduranceは「持続に関する言明の真理条件を対応者理論によって与える」という意味論だけに関する理論のように思える。だとすれば、これは耐続vs延続という存在論的レイヤーの論争とは違う場所に位置づけられるべきだろう。そして、論争のレイヤーが違うのなら、「exdurance」という用語は混乱の元になるので使うべきではないだろう。

明日は訳語について書こうと思っていたんだけれど、こんな調子で書いてたらとうてい書けそうにないな…。

*1:Haslanger, S. (2003), "Persistence Through Time," in Loux, M. J. and Dean W. Zimmerman (eds.), The Oxford Handbook of Metaphysics (Oxford: Oxford UP), chap. 11.

*2:ibid, p. 335参照。

*3:ibid, p. 318参照。

*4:たとえば、『四次元主義の哲学』p, 337参照。

*5:ここは誤解されやすいところかも知れないが、Sider自身「時間対応者関係は、ワーム論者が複数の段階を時空ワームに統合する際に用いるのと同じ関係である」(同書p, 339)と述べているように、対応者関係が成り立つときには必ずワームが存在する。

*6:ただし、Sider自身はこういう説明はしていない。

*7:実際Haslangerもこのように考えている。Haslanger (2003), p. 350参照。

*8:永久主義版exduranceには、段階がワームの切片でないならばいったいどういう意味で「段階」なのか、という問題もある。