最近さっさと就職しちゃったのでちょっと妬ましく思ってる哲学的フレンドのAさんがmixiで哲学雑記を書き始めたのを知った。僕もmixiに入ってるが、マイミクシィには業界関係者を入れないという方針でやってるので(既に何度かリクエストを断った経験あり)、コメントを書き込むのに抵抗があるので、ここでつぶやいておく。
まず、僕の理解では、随伴現象説がスーパーヴィーニエンス現象説にすり替わったというよりは、そもそもスーパーヴィーニエンスは、「随伴現象ではなくて単にスーパーヴィーンしてる現象に過ぎないんです」と主張することによって、随伴現象説からやばい部分を引き算するためのもの。物理的対象が物理的性質とそれにスーパーヴィーンする心的性質の両方をもつことになるので、特別に心的対象を措定する必要もなく、物理主義(or唯物論)で問題なし、となる。でも、この試みは結局は失敗したっぽい(というのが金沢のS先生の結論)。

ここで、「随伴現象でいいじゃん」と開き直るのはたぶん正しい。ただ、その場合は随伴現象の記述が何によって正当化されるのかが問題になる(もしスーパーヴィーニエンスが期待通り働いていくれていれば、この正当化もやってくれただろう)。これを、随伴する性質をもつ存在者に訴えて説明しようとするのは、方針としては正しいけれど、存在者であることの定義によっては無意味になる。というのも、意識をある種の抽象的存在者にしてしまえば説明できてしまうから。だから、この問題を回避するためには、先に何が存在者であるのかの規定(=メタ存在論的前提)を与え、それを擁護する必要があるだろう。が、これはなかなか大変。

僕の意見では、性質と存在者という要は主語・述語の対応者についてはひとまず横に置いておいて、心的な説明を与える文は何によって真となるのか、何がその文を真にする存在者(Truthmaker)になるのかを説明するという方針をとるべき。というのは、心的な説明であれなんであれ、それが「本当に」正しいのなら(かつアプリオリでないなら)、それのTruthmakerを説明できるはずだから。

で、Truthmakerについては、来月の基礎論学会での僕の発表を聞いてね、と我田引水したところで、発表準備に戻ります。