業務再開

落ち込んでばかりもいられないので業務再開。

今日はこのセメスターの最初の授業。とは言え、それはただ単に僕が月曜の授業にしかでないことに決めたせいで、本当は先週の火曜から授業は始まっている。

さて、月曜は1時10分からJason Stanleyの分析哲学の歴史、7時40分からTed Siderのメタ存在論。意気揚々と行ってみると、既にずらっと院生が勢揃いしてる。おそるおそる入ってみると、「11時半からだよ」という声が。ああ〜、そう言えばそんな掲示がしてあったような気がする。Webには上がってなかったので忘れてた。そもそも、ちゃんと先週から大学に来てればこんなミスはしなくて済んだはず。やっぱりちゃんと来ないといけない。

と言うことで、授業の合間が三時間から五時間に増えたので、いったん家に帰ることに。ついでに復習も兼ねて、この授業についての日記を書くことにする。上述のように半分程しか出てないけれど、僕が教室に入ったとき、Jasonは"On Assumptions"を片手にMeinongの話の最中だった。

(以下、長いので「続きを読む」に回します)
Meinongは、that節の"that"は直示語(demonstrative)で何かを指示するという、Davidsonと同じ過ちを犯していた(と言ってたと思う。以下、聞き取りミスについての留保は省略)。この結果、判断は主体と客観的な判断内容との関係とされる。これは、"I know that John is tall"と"I know John's being tall"が同じ意味であり、さらに"I know John's being tall"と"I know John's face"が同じ構造をしていることに裏付けられる。

ただし、これには反論がある。たとえば"I fear earthquakes"と"I fear that there are earthquakes"を比べると、前者は地震に対する恐れを表しているが、後者は(地震についての)命題に対する恐れを意味しているのではない。よって、この二つは意味論的に違うはずだ。このことを認めるならば、that節が客観的な対象を指示するという考えの根拠は疑わしくなる。Jeff Kingのように、命題的態度を表す動詞は複数の用法があることを認めながら、命題を客観的な対象とするのは、無理がある。

(ふと思い出したけど、ここで"I fear that there are earthquakes"から"I fear somrthing"が導きだせることから客観的対象としての命題を擁護できるんじゃないか、という意見が出てた。)

さて、命題"John is tall"は、仮に存在するとすれば、その真理値に関わらず存在するように思われるが、一方、John's being tallは、もしJohnの背が高くなければ存在しないように思われる。だが、"I know that John is tall"と"I know John's being tall"が同じ意味で、どちらも私とある客観的な対象との関係を意味するのなら、一方のみが存在しない対象との関係を表すとは考えにくい。実際、Meinongは、命題"John is tall"が常に存在することからJohn's being tallも常に存在すると考えた。

この、判断を主体と客観的内容との関係とする考えはMeinong、Frege、(初期)Russellに共通のものである。同時に彼らは、事実を真なる命題と考えていた。すなわち、真理の同一説を採っていた。このような多くの客観的対象を認める立場は、当時主流だったヘーゲル的な観念論へ反論することを動機としている。現在ではこのような動機は失われたが、そういう背景知識なしには彼らの真意は理解できない。

(このあたりはMooreのSelected Writingsかなにか(緑の本)を片手に。)

このあと、Bradleyの話に。Bradleyは対応説に批判的で同一説を支持していたとか、彼はBundle theoristだったので、対象をある概念についての存在命題と同一視したとか、Jasonもmysteriousとか言ってたけど、聞いててなんだかよく分からなかった。

次回は、概念記法の話。英訳は手に入りにくいので全文コピーを用意するとか。日本語訳を持ってくればよかったと後悔。